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「お湯も沸いたし、シャワーを浴びてお湯に浸かろう」

リモコンで設定していたバスタブの湯が、丁度良い具合に張っていた。
黒瀬が便座に座ったままの潤のガウンを脱がせ、自分も裸になると、潤を抱き上げシャワーの前に移動した。
ゆっくりと床に降ろすと、潤の腰に負担をかけないよう四つん這いにし、洗浄を始めた。

「そこ長いよ……」
「ここを一番清潔にしとかないとね。雑菌がわくと傷によくないから」

潤の中心と排泄したばかりの蕾を、泡のついた黒瀬の指がとても繊細なタッチで洗いあげるので、気を抜くと勃起しそうなくらい、気持ちがよかった。
もちろん、そこだけじゃなく、足の指先から頭部まで、余すとこなく丁寧に磨き上げられる。
ここまでしてもらっていいんだろうか?
潤がどこかの国の王子がなにかで、黒瀬がその身の回りの世話するお付きの者のようで、申しわけなさで一杯になる。

「黒瀬、ありがとう」
「どういたしまして。潤を洗うの楽しいから、礼なんていらないよ」
「うん、でもありがとう」

本当に黒瀬は楽しそうだった。
普段の生活では人にしてもらうことの多い黒瀬だったが、潤に関してだけは自分がしてあげたいと思うのだ。
そういう感情が潤と知り合うまで黒瀬には欠けていた。他人に尽くす歓びを潤を通して初めて経験していた。
洗い終わった潤を先にバスタブに入れ、自分の身体を洗浄・洗髪し、それから潤の横に黒瀬も浸かった。

「湯加減どう?」
「丁度いい。あまり熱くないから、染みないみたい。それにしても、凄いよね、この風呂。ラブホテルみたい」

潤の言葉に、黒瀬のこめかみが僅かに動いた。

「潤、ラブホテル行くんだ……ふうん…」

黒瀬の声のトーンがおかしい。

「黒瀬? あの、俺二十歳過ぎだぞ? 女の子にもてるタイプじゃないけど、それなりには……」
経験があると、言おうとして潤は口をつぐんだ。黒瀬の顔が無表情で、切れ長の目が冷たい光を放っていた。
「黒瀬だって、大人なんだから、俺以上に色々あるだろ。…上手いし……、それって経験が豊富だってことじゃないの?」
「ラブホテルはない。一度もない。なのに、潤はあるんだ…」

ラブホテルはなかった。
事業の一環で、ラブホテルも所有しているが、黒瀬が利用するのは一流と呼ばれるホテルだけだ。

「どっちを怒ってるんだよぅ。俺が誰かと経験あるのが嫌なのか、それともラブホテルに行ったことがあるのが嫌なのか」
「そんなの、両方に決まっているだろ?」
「嫉妬してくれてるんだ」
「してる」
「俺はしないぜ。だって、そんなの意味ないだろ? 今、他に誰かがいるなら話しは別だけど。俺、胸張って言えるもん。今までの人生で本気で好きになったのは、黒瀬だけだって。絶対このまま、ジジィになるまで、棺桶に足突っ込むまで、変わらないって言い切れる。黒瀬も俺をそれぐらい好きでいてくれてるって、信じてる。だから、過去はいい。何があっても、何をしてても、いい。過去だけじゃなくて、今、どんな汚い仕事してようと、ヤクザだろうと、俺の知らない顔があろうと、俺は黒瀬を嫌いにはならない。って、これ組長さんの前でも言ったよな…」

言っておいて、恥ずかしくなる。
黒瀬の反応を見ることなく、背を向けてしまった。向けた潤の背に、黒瀬が自分の背中を合わせた。

「潤の方が心が広いね。私も潤以外はもう考えられない。潤ありがとう。ふふ、でも初めて嫉妬したよ」
「えっ?」

背を合わせたまま、お互いの顔を見ずに会話が続く。

「嫉妬するぐらい、誰かを好きになるってことなかったから……」
「そう言われると、嬉しい……。もう俺には黒瀬だけだから。な、浮気とかすんなよ?」
「するわけないだろ?」
「したら…」
「したら?」
「殺す!」
「殺すって言葉が、潤の口から出るなんて」

いつもの自分の口癖を取られて、黒瀬の顔に笑顔が戻った。
潤がくるっと、向きを変え、黒瀬の背中に抱きつく。

「マジだから、俺」

潤の腕が黒瀬の首に巻き付く。

「そのまま、絞めてみる?」
「バカ…、そんなことにならないように、ずっと俺を見ててくれよ? 俺、飽きられないように努力するからさぁ」

黒瀬の耳元で、潤が甘えるように囁いた。

「ふふ、飽きるはずないだろ? 努力って何する気?」
「内緒」
「楽しみにしておこう。どちらかというと、私の方が飽きられそうな気もするけど」
「そんなことないって、さっき力説したばかりじゃん」
がぶっと、ふざけて潤が黒瀬の肩を噛んだ。
「おやおや、この子猫は悪戯を始めちゃった? もっと強く噛んでもいいけど?」

黒瀬の言葉を受けて、痕が付くくらい、潤が強く噛む。
そして、力を緩めると、そのまま背中に唇を這わせた。

「くすぐったいよ」
「…綺麗…、桃色の傷」

今度は舌を出し、黒瀬の背に広がるケロイド状の傷を舐める。

「潤はこの傷好き?」
「鮮やかで、花片が舞っているようで、綺麗だと思う……ごめん、俺酷いこと言っているのかも知れない……事情知らないのに」
「潤が気に入ってくれるなら、この傷を受けたことも、無駄じゃなかったのかも知れないね。ありがとう」
「あのさ…」

潤が指を傷の上に置いて、ゆっくりと滑らせながら、少し言いにくそうに切り出す。

「この傷のこと聞いてもいい?」
「気になる?」
「うん」

聞かれて嫌な事かもしれない。でも、知りたかった。

「たいしたことはないよ。子どもの頃に父親に付けられた傷だ。愛情深い人だったからね」

黒瀬の告白に、傷を這っていた潤の指が止まった。

「…それって……、」

虐待だろ、とは言えなかった。
叩いたり、殴ったりしただけでは決して出来るはずのない傷。
ケロイド状になっている上下左右に広がる無数の傷は、そこから流血したことを物語っている。
潤だって、世間で親による子どもへの虐待がそう珍しいことじゃないことも、それで命を落とす子もいることも、知っている。
でも、それは自分からは遠い世界のことだった。自分には父親の存在がなかった。
仕事に忙しい母親の彩子とは普通の親子より一緒にいる時間は少なかった。
しかし、彩子の愛情を目一杯注がれて育った潤には、親による虐待はフィクションの小説のように、現実感がないものだった。
今、潤の目の前にそれを受けた人間がいる。 しかも、どう見ても虐待というよりは、拷問に近い。

「ビックリした? もう、昔の話しだよ。別に傷が痛むわけではないから。ただ、消えないけどね」

皮膚の傷が? 心の傷が?
訊けない言葉を胸の裡で呟いた。

「…組長さんも、あるのかよ。傷が」
「ふふ、兄さんにはないよ。深い愛情が俺にだけ向けられていたからね」
「何で、深い愛情なんていうのさ。何で、親がこんな事……こんな事……、うっ…」

潤が泣く。
黒瀬のために涙を零す。
その当時の黒瀬が受けた心と体に受けた痛みを想い涙を流した。
黒瀬が振り向き、泣いている潤に微笑んだ。

「お馬鹿さん。潤が泣くことないんだよ?」
「…黒瀬…、俺、痛いよ。俺も痛いから。当時のお前の痛み、感じるから……全部は無理だけど……少しは感じるから……」
「ありがとう、潤。潤は優しい子だね」
「俺のこと、雄花っていうけど、花を背負っていたのは、黒瀬のほうだ……。今日から、これは、傷跡じゃなくて、俺と黒瀬が育ててる花ってことにしようぜ…、な?」
「潤と私の?」

黒瀬が潤と向きあう。
潤が湯で顔をザブッと洗い、黒瀬に笑顔を向けた。
それから自分の左乳首のピアスに手を置き、軽くアメジストの石を引っ張ってみせる。

「黒瀬の所有の証がこれなら、黒瀬の背中の花は、俺を背負ってるってことでどうだ? どうぜ、雄花っていうんだったら、な、いいだろ? それは父親に付けられた傷じゃなくて、俺自身。いつも俺を背負ってる。嫌か?」

黒瀬が自分の背に手を回し、傷全体を確かめるように撫でた。

「これが、潤? 悪くないね。この傷を綺麗と言ってくれるのは、潤だけだし…。本当にこの雄花は、最高だ」

黒瀬が潤を胸に抱き込んだ。潤の視界が黒瀬の胸で遮られる。潤の耳に静かに黒瀬の心臓音だけが届いた。
泣いている?
潤を抱きかかえた黒瀬の胸と腕が小刻みに震えだした。

「…黒瀬?」
「しばらく、このままに……」
「――うん…」

中学に入学した頃から理不尽な理由で始まった父親による虐待。
本宅の小屋で、両手を縛り上げられ裸で吊され、竹刀で何度も叩かれた。血飛沫をあげ、気絶するまで続いた連日の地獄。
しかし、黒瀬が涙を流して許しを請うことはなかった。
感情を押し殺し生きてきた。それが生きる術だった。
そんな黒瀬が初めて心のままに、涙を流した。
潤の心が、黒瀬を素直にさせる。封印していた闇に潤によって灯がともされた。
傷が辛い想い出ではなく、潤によって二人の愛の証になった。
潤を胸に収めたまま、潤の温もりに黒瀬が静かに涙を流す。

(この続きは会員ページでご覧頂けます・または4月発行予定の「地上の恋も無情!Ⅱ」をご覧下さい)
この先は…機上恋の数倍濃い内容です。かなりハードな内容になります。
特に後半は…潤も黒瀬も大変なことに…

泥酔した時枝が勇一の罠にはまったり、
潤が黒瀬の仕業で行方不明になったり…

そして、東京から福岡に戻った潤が行方不明に!
探しに行ったった黒瀬を待ち構えていた罠とは?