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「…水…、腹も減った…、…痛い……」

畳の上の敷き布団の上で、ダラ~っと腕を布団から投げ出し、足を45度ぐらいに開いたまま、潤が俯せに横たわっている。
腰には肌布団が掛けられているのだが、はみだした白い太腿に、数本流れた赤い血の痕が扇情的で、艶めかしい。 
朝食も摂らず、黒瀬と激しく盛ってしまったツケが、潤の身体を直撃していた。

「時枝に軽い食事と薬を運んでもらおう」 

自分だけ汗を流し、ラフな服装に身を包んだ黒瀬が、内線の受話器を取る

「佐々木か。時枝はいる? …あっ、そう。じゃあ、佐々木でいいから、何か食べるものと、鎮痛剤と裂傷用で染みない薬を持って来てくれ。……医者の手配はしなくていい」 

用件だけ伝えて内線通話を終えた。

「時枝さん留守なんだ」
「そうみたいだね。佐々木が来るから、潤のその姿みたら卒倒するね。その美しい血痕拭いておかないと、佐々木が鼻血出しそうだ」「そんなに酷い?」
「潤のバージンはイギリスで奪ったつもりだったけど、今回の方がそれっぽい。セカンドバージンの方が、散り方が派手だ。本当は医者の手当て受けた方がいいのかもしれないけど…」
「イヤだ」 

間髪入れずに、潤が拒否した。

「黒瀬以外に触れられたくない。医者でもイヤだ。死ぬようじゃ傷じゃないし、大げさだよ…確かに今は痛みが半端ないけど。経験済みだから、大丈夫だ」 

イギリスのアパートメントホテルの一室で無理矢理強姦したことを思い出してか、黒瀬の顔が曇る。

「そんな顔すんなよ…黒瀬。俺、恨んでないぜ? 経験済みって、酷い経験だったっていう意味じゃないぜ? 最悪だったのは、拉致されて、オークションにかけられたことだけで、その後のことは、凄まじい経験だったけど、酷いとは思ってないから…むしろ…」 

お前の俺に対する深い愛情だろ? 嬉しいよ…… 口に出さずに、胸の裡で一文続けた。 
黒瀬にそれが伝わったのか、表情から曇りが消えた。

「二回も黒瀬に奪われて、俺は満足だ」 

エヘンと、潤がふざけてオッサン口調で言ったので、黒瀬の顔が緩んだ。 

「じゃあ、何度でも奪ってあげよう
「あぁ、そうしてくれよ。望むところだ、……腹減った……」 

ふふ、面白い子だ。激痛で本当はそれどころじゃないくせに。 
腹も減ってはいるだろうが、食べるどころじゃないはずだ。
でも、空腹を訴えるのは、そこまで酷くはないから心配するなという潤なりの気遣いなんだろう。 
黒瀬は潤の心情を見抜いていた。 
事実、口だけは達者に動かしている潤だったが、身体はピクリとも動かない。 

「ボン、食事と薬をお持ちしました。開けてもよろしいでしょうか?」 

佐々木が離れにやってきた。

「少し待って」 

佐々木に潤の扇情的な姿は見せたくないと、黒瀬が潤の肩から下をすっぽり布団で覆う。

「入って」 

失礼しますと、佐々木が盆を持って入ってきた。
潤が首だけ佐々木に向け、「こんにちは」と挨拶をする。
佐々木も潤に一礼をする。

「これはどちらに?」
「受けとるよ。ありがとう」 

黒瀬が佐々木から軽食と薬の載った盆を受けとると、座卓に置いた。

「ところで佐々木、もう老化現象か? 物忘れが酷くなったようだが?」 

振り向きざま、黒瀬が佐々木に訊く。

「は?」
「それとも、嫌がらせ? 殺されたいとか?」  

佐々木の顔がみるみるうちに蒼白になる。

「呼び方、何度言ったら解る? それとも、ヤクザは指でも詰めなきゃ解らないとでも言うつもり?」 

これには佐々木だけじゃなく、側で聞いていた潤の顔も青くなる。

「も、申し訳ございませんっ。た、武史さまっ。嫌がらせなんて滅相もございませんっ!」 

佐々木が額を畳に擦りつけて土下座をする。

「桐生組の若頭がこんなに物忘れが酷いようなら、兄さんも苦労するね。ところで、」
「はいっ!」
「時枝はどこに行ったんだ?」
「えっと…、組長が遊びに連れ出したようです。夕飯迄には戻ると思います」
「兄さんが一緒か。そうか…」 

勇一までも留守だと告げられ、黒瀬の眼が一瞬光った。

「じゃあ、佐々木に一肌脱いでもらうことにしようかな。俺の頼みきいてくれるよね?」

 …それは、頼みにもよりますが… と思う佐々木だったが、先程の自分の失言のこともあり、「はいっ!」と潔く返した。

「で、頼みとは?」 

恐る恐る佐々木が黒瀬に訊く。

「とても簡単なことだ。人目につかないように俺と潤をここから俺のマンションまで運んでくれ。兄さんが戻って来る前にここを抜け出したい。簡単だよね?」

二人を連れ出すこと自体は簡単だが、問題はそんなことをすれば、組長の怒りを買うことは目に見えている。
年末年始を可愛い弟と過ごしたいと思っていることは、組の誰もが知っている。
つまり、黒瀬の申し出を受けるということは、組長を裏切るということになる。佐々木の額に冷や汗が滲む。

「そんなことをすれば……」
「すれば、何?」
「…組長を……」
「組長を?」 

見る者を凍らせるマイナス一〇度はありそうな冷たい視線で、黒瀬が佐々木を睨む。
死を覚悟で佐々木が続けた。

「……裏切ることに…。年は下でも組長は親。子が親を裏切ることは、この世界では許されませんっ」 

言ったぞ、えらいぞ、と黒瀬の視線に負けずに言い切った自分を褒めてやりたい心境の佐々木だった。

「だから?」
「…はい?」
「だから、何って訊いているの。まさか、一度受けた事柄を、簡単に覆したりしないよね、桐生組の若頭ともあろう方が。それとも何、一度『はい』と返事をしたものを、この組では簡単に反故にしても問題ないんだ。へぇ、桐生組も落ちたものだ」

『はいっ』と、答えてしまったことが、佐々木の命取りだった。
それに気付く頃には、もう逃げられない状況に陥っていた。

「だいたい、佐々木は兄さんから、俺たちをここに閉じこめておくよう、命令されたの?」  

佐々木が直に申し渡された言葉は、「出掛けてくるから、後を頼むな」だけだった。

「…いえ、それは…」
「じゃあ、問題ないじゃない。裏切るもなにも、命令に背くわけじゃない」
「…そりゃ、そうですが…」
「ということで、一時間後に、車を裏へ回しておいて」 

食事と薬を運んだばっかりに、黒瀬からとんでもないことを頼まれた佐々木は、自分の不運を呪った。 
子どもの頃の黒瀬を知る佐々木にとって、黒瀬は可愛い存在だったが、時に悪魔になるということを、すっかり失念していた。
離れに来たときは違う生気の抜けた表情で、佐々木は母屋へと消えて行った。